Blog / MADE INOCCUPIED JAPAN
届けたい想い
【MADE IN OCCUPIED JAPAN】
戦後70年、私は戦争を知らない。
生まれた時から当たり前のように基地と隣り合わせの生活を送っている。 私の住んでいる宜野湾市には普天間基地があり、 基地が近くにある環境は軍用品を実際手に取ることも当たり前にある。
きっと沖縄では軍用品は一家庭に当たり前にあるだろう。
しかし、私たち世代はその手に取るものの背景に対して、きっと希薄な部分が あるのだ。
それを手にとって理解を深めていくことはなかなか難しいことであろう。
戦後70年となり、戦争体験者も高齢となって過去の悲惨な出来事もリアルに感じとることができなくなっているのかもしれない。
私は父が沖縄の歴史の大学教授というのもあり沖縄戦について伝えてもらって いる環境で育った。自分の住んで居る環境の歴史を知ることの大切さを常に教 えられてきた。
一人っ子でのんびり育った私はだいぶ自由人である。 そんな私に父がいつも口うるさく言っていたのが、沖縄学の父・伊波普猷の言葉だった。
「深く掘れ、己の胸中の泉 余所たよて水や汲まぬごとに ~ふかくふれ などぅぬ んにうちぬいじゅん ゆすたゆてぃ みずぃや くまぬ ぐとぅん〜」の琉歌である。
意味は「自分の立つ場所を深く理解すれば、そこには泉のように豊 かな世界が広がっている。自分自身の問題をよそに頼って どうし て解決できようか」
今、あなたは目の前のものに何を感じ、何を手に取っていますか?
LEQUIO の商品にはたくさんの想い「ギフト」が詰まっている。 沖縄の歴史背景の言葉をストレートにブランド名にしたのが 「MADE INOCCUPIED JAPAN」だ。
「MADE IN OCCUPIED JAPAN」意味は“占領下の日本製” 太平洋戦争後、1947 年からサンフランシスコ講和条約が発効された 1952 年ま で、日本からの輸出品に表記を義務付けられた言葉から由来する。
沖縄は今でこそ南国の楽園のような場所だが、太平洋戦争時には激しい地上 戦が繰り広げられた。戦後、米軍の占領下に置かれた沖縄は衣食住すべてが不 足していた。しかし彼らは過酷な状況にも知恵を絞り、限りある資源で様々な 物をうみだした。
戦闘機の残骸を溶かして鍋を作り、大きなガスタンクをくりぬいて船を作り、 配給品の小麦粉の袋を帆にして漁にでていた。生きていくために。
LEQUIOでは沖縄の米軍放出品のテントを使い、商品を作っている。 素材としてはとても魅力的なものだが、元々の使用目的を考えれば負の遺産とも言えます。
しかし、あえてこの素材を使い、本来の意図と異なる日用品に変える事で 、MADE INOCCUPIED JAPAN(占領下の日本製) と言うこの言葉を平和へのメッセージに変えて伝えて行きたい。
MADE INOCCUPIED JAPANで使用するテントの多くは、米国「O.R.C INDUSTRIES」社によって1960年代から1990年代に製造されたもの。 実際に使用されていた素材の為、使用環境や状況による傷や汚れなど一枚一枚 表情が異なる。
裁断は最終的な仕上がりを左右するとても重要な作業。 まずテントを裁断台に広げ、傷や汚れの位置を確認し、最終的な仕上がりを想像しながらパターンと呼ばれる設計図を配置して行く。 裁断後、生地の裏面にペンキを塗り一日乾燥させる。 ペンキを塗る事で生地の強度と防水性が高まると同時にハリが出るため、物を 入れていない状態でも型くずれしにくい鞄を作る事が出来る。
MOJ の鞄の裏地はオレンジだったりする。これは MAI 等のフライトジャケ ットの裏地が、飛行機が墜落した時に裏返して着ると目印になるようオレンジ 色で作られている為だ。そういう自分の命の危機にある極限の状況下を想定した気遣いは、凄いなと単純に思い、それを捩ってデザインに反映させている。