Blog / LEQUIO DIARY
久しぶりの先生
久しぶりに先生に会いに行った。
急に車を運転してたら先生の顔が頭に浮かんだのですぐに電話して急遽アトリエに伺うことにした。
先生と言っても自分が教わっていたわけではなく
ジュエリースクールの先生をやっているので先生と呼ばれている
田中先生
作品を作る時の名前は統 滋 海 樹(THOMAS KAIJYU)
外人住宅の密集する沖縄県牧港で「Kazari School Of Jewelry」というジュエリースクールを今から14年前の2002年から開いている。
僕が学生の時に個展を見に行って「沖縄にもこんな作品を作っている人がいるんだ」と思ってたら紹介を受けて数日後にお会いしてからのお付き合い。その時からレディースのGパンを履いて華奢な体格に似合わずタバコをふかしたスキンヘッドの仙人は当時から何も変わらない。w
もともとは東京でMIKIMOTOで長年宝飾関係の製作、技術指導に携わってきたお父さんの元で宝飾の世界に足を踏み入れる。
長い間貴金属の加工に身を置いてきた職人の工房は繊細な作品を作るために集められた特殊な機材が多い。
僕の実家の隣はおじーが鉄工所を経営していたので見たことある機材がたくさんある。
愛犬のシイナ、もうおじいちゃんだ。
沢山の生徒を輩出してきた工房が11月には強制的に立ち退きになる。僕が19の時に初めて伺った時にも立ち退きの話をしていたがこの度道路を拡張するためにこのアトリエから出ていかなければならない。
頻繁に来ていたわけではないけど懐かしい雰囲気、年に1度お邪魔するかな?くらいの頻度でしか来てないけれど、いきなり電話して「今から行っていいですか?」って聞いても「いいよー」って断られたことがない。w
歯医者で使う歯を削る機械を使って金属を削り出して加工していく。何百度もあるバーナーを使い、特殊な万力で金属を曲げ磨き、削り出して加工していく。
仙人のような風貌の田中先生、お会いしたのが僕が19の頃なので12年ほどの付き合いになるかな?!
年に1回個展をやるので毎年その時はお邪魔させていただいている。
もともと沖縄に来たのはたまたまで沖縄でサミットが行われた年に万国津梁の計画で関わっていた。その時に沖縄をテーマに製作した作品の展示を行っていた時に見学にきた学生に「あなたみたいな人から教わりたい、先生みたいな人が沖縄に居てくれたらもっと本物の職人が育つ」と言われその後沖縄に移住してジュエリースクールを開設。その時に話した学生が最初の生徒だった。
もう沖縄に住んで10年以上がたっている歳も75になった。後先はみなさんに比べて短いけれど,これから先も若い人に夢を追ってもらえるように頑張りたいって話してた。
10年まえから話していることがブレない、ずっと同じ思いを貫いてきている老職人は純粋で少年のような目をしてクシャクシャな年季の入った顔で笑う。
これから僕がやっていきたい事など話していたら沖縄に君のように夢を追って走る若者が沢山出てきて欲しい。と常に言っている俺自身は自分の勝手な思いを話しているだけなのにすごく共感してくれる。
また
貴方は人に助けらえる人、恩を受けたらその人に返さなくてもいい、でも恩は忘れず次の人に同じようにしてあげなさいと言われた。
そういえば昔から母親からも同じような事を言われてきたのを思い出した。
沖縄は久しぶりの雨。
いきなりの雷雨だけど雲を抜ければそこには
多い空と白い雲の海があった
これから東京に向かいます。
プロフィール
統 滋 海 樹(THOMAS KAIJYU)
横浜生まれ
桑沢デザイン研究所
米国 クランブルック芸術大学院大学卒
統 滋 海 樹ジュエリーデザイン事務所 所長
Kazari School Of Jewelry 主宰
MIKIMOTOで長年宝飾関係の製作に携わっていた父親、田中一郎の元で宝飾の世界に入る。その後留学し卒業後カリフォルニア州フォーレストボンド社に入社、帰国後個人を顧客としたカスタムジュエラーとして個展を主体に活動。その間日本ジュエリーデザイナー協会主催日本経済新聞文化庁後援のコンペでグランプリを受賞。その他日米で数々の入選入賞に輝く。2000年に製作活動を沖縄に移し、2002年に沖縄の若手のアーティストの育成を目的にKazari School Of Jewelryを開設。沖縄における金属工芸の確立を目指している。